明日には忘れるひとりごと

ただの偏見と自論

きれいなものばかりを見ていたい

 

 

わたしはずるい人間だから

すぐに目を逸らすことを選ぶ

できる限り何も見なくて済むように

 

 

幸せになりたいな、と呟くわたしに

広い視野で見れば今日をこうして生きていることが

まず幸せなことじゃない?と真面目な顔して言ってくる

世界のどこかでは今日も苦しむ人がいるんだから

なんてこと、言ってくる

 

もちろん、そういう人たちがいることを知らないわけではない、

けれど、なんだってそんなこと言われなければいけないのか。

 

自分がいかに恵まれた環境にいるのか、なんてことは

誰と比べるか、何と比べるかによって変わる。

 

短い命の生き物と比べて100年生きるという人間だという理由だけではヒトのほうが幸せだなんて言い切れやしない。

 

わたしから見れば苦しそうな生活に見えても、相手自身がその生活を苦しんでいるかどうかなんてこと、こっちが勝手に決めつけていいはずがない

 

勉強が好きな子に遊べなくてかわいそう、なんて言葉をかけたって、その子は遊ぶことが嫌いかもしれないから、何をかわいそうだって言われてるのかわからないかもしれない

 

クラスの全員と話せないことよりも、面白おかしくニヤつきながらちょっかいをかけてくる派手な子からの一言の方がよっぽど辛かったことのように

 

勝手に他者の不幸を想像して、自分がそれよりも幸せな存在であると言い切れるあなたがわたしはどうしても受け入れられなかった

 

そんなことを思いながら自分もどこか自分に酔っている部分がある、と気づくと前を向いて歩けなくなる

結局わたしも

同じように人と比べて、ヒトと重ならない部分がある自分を

どこか特別だと思いたいのかもしれない。

 

日没が近い空を見ていても毎回同じように綺麗、という言葉しか思い浮かばないこの頭にがっかりする

作家や詩人、その他のアーティストたちなら、この空一つ見ただけで幾つもの思い出や想い、風景を重ねてみることができるのだろうかと思うと、平凡な自分がウザい

 

キレイ以外の何にも変えられない

 

 

特別という曖昧な言葉に憧れを抱いている

 

平凡ではなく非凡でありたいと思っている

 

自分でもよくわからない

 

 

ここに居ない誰かの話を聞くのが苦手

その人がすごいとか頑張ってるとかウザいとか、そういう話は心底どうでもいい

そんな誰かもわからない存在しているかもわからない人の評価を並べるくらいなら、目の前にいるわたしのひょうかをしてくれ、と思ってしまう

けれど、そんなことしてくれる人なんてわたしの周りには居ない

多くは、わたしの話をする時変な気遣いをしてくれる

 

はっきりと足りないものは足りないといってくれたらいいのに、

頑張ってくれているのは知ってるけどもうちょっとできる?なんてよくわからない伝え方をする。

本当にわたしが、頑張ってくれている、と思っていますか?と問いたくもなるけれどそこは触れないという選択をして、「もうちょっと頑張ります」というのが妥当なんだろう

 

あるようなないような曖昧な規則を堂々と無視する人が気になっても

そんなに大きな問題ではないからと放っておく、

むしろそこにあーだーこーだ言い出すわたしの方が社会にとって迷惑な存在になっているんだろうなとも思う

 

厳しすぎるとか真面目すぎる、慎重すぎる、律儀、堅いその他諸々の言葉でわたしは肯定されるような温度で否定されていく

 

わたしには汚れて見える世界だとしても

彼らにはわたしがゴミのような邪魔なものに見えているんだろうと思うと、申し訳ない

 

 

 

わたしは今日も一人で空を見ながら

綺麗だと呟けたら、それでいい