明日には忘れるひとりごと

ただの偏見と自論

自惚れながら生きてる

ネガティブすぎるのよくないよ

 


ってよく言われる、よく聞く。

けどさ、ネガティブを必要以上に嫌うことはないと思うのね。

悲劇のヒロインぶってるとかって言われることもなくはないと思うけど。

思うけど、そう言われてる時の自分も嫌いではないというか、ちょっと痛い人にはみられるかもしれないけど、その “かわいそうなわたし。” が居る時だけは、

自分にあまく、やさしく、寄り添える気がするから。

だから、大事。 悲観的な時間も。

 


ネガティブにはまりすぎると抜け出せないけどね、なかなか。 落ち込みすぎることもあるし。

でも、それで、わたしは私になるから。

 


あとね、

ちゃんとネガティブになれたら、

ちいさなしあわせとかにも気づける気がするの

 


欲張りになりすぎると、どうしても

キラキラした人と比べてしまって、

あれもないこれもない、なにもないわたし、になるけど。

そんなのは当たり前で。

同じ土俵に立ってすらいないのに、比べてどうすんのって、

急に気付ける瞬間があるんだよね。

 

 

 

わたしはほんとにできないことだらけでさ、

嫌になることも多いし劣等感にのみこまれまくるんだけど、

ちょっとやり方変えるだけで、できるじゃん!って気づくこともあるのね、最近。

 


例えばね。

わたしは人前で話すのが苦手なんです、

誰かに向けてプレゼンする、意見する、スピーチするとかなんだとか、全般。

注目されることも苦手だからね。

けど、話すことは好きなの、聞くことも含めてね。

でも人前でってなると話せなくなる。

 


話したいのに話せない

 


だからずっと苦手って言って避けて生きてた。

 


けどこうして、ブログとして、

読まれるか読まれないかわからない状況で、

一方的に投げかけることは出来るんだーって、

最近気づいたの。

 

 

 

もしかしたらのもしかしたらで、

知ってる人が読んでくれてたりするのかもしれないけれど、読まれない可能性のほうが圧倒的に高いと思うし、すぐにリアクションがあるわけでもないから、好き勝手遺せる。思いを、言いたいことを。

 


ただのビビりな卑怯者ではあるけど、

それでいい、なんとでも思ってくれと。

それがわたしだと。

 


直接向けられる冷たい視線に比べたら

なんてことない。

 


話したいけど話せないことは、

一方的に放つことで言った気になるし

誤魔化せる。今はこの方法で満足してる、楽しいし。

 


なんかかなり話が変わってきてるけど。

 


何にもならなくても楽しい!と思えることはするっていうことが大事なことだって気づいたよ。

 


今日もこれしよう!って思えることがあるだけで

今日を生きる理由ができるから。ね。

自分都合でいいよ、誰かにとってどうでもいいことが

わたしの特別であれば、ひとりじめ。

 


それでいい